「上のタイトル名をクリック(タッチ)して下さい。」
1.主旨
最近知ったのですが東三河は縄文遺跡が多く、多くの縄文人(蝦夷)が住んだと思われます。そこに渡来人(弥生人)が侵入し始め、やがて弥生末期での大和盆地への邪馬台国の東遷に伴い多くの物部氏や蝦夷の人々が東三河に流入したと思われます。そして大和政権の蝦夷制圧政策により蝦夷の人々は東北地方に追いやられ、反乱・政権による征夷・俘囚の全国への移配などを経て、蝦夷の人々が表に現れない現在に至ったものと思われます。
そのような歴史において、東三河にいたはずの縄文(蝦夷)の人々はどこへ行ってしまったのかを検討する。
2.渡来人(弥生人)の侵入し始めた段階
1)遺跡分布 (『愛知県 八名郡の先史遺跡』より)
下図は東三河の遺跡分布です。豊川・神田川・三輪川など削られて残った河岸段丘に多くの縄文遺跡があります。このことから多くの縄文人が住んだと思われます。次に弥生遺跡を見てみると、多くの縄文遺跡に囲まれて弥生遺跡があることがわかります。弥生人が東三河に入って来た初期の段階においては、多くの縄文人が住む中へ弥生人が侵入したという状況が考えられます。
2)弥生人入植初期での縄文人との関係
弥生人が東三河に入って来た初期の段階での、弥生人と縄文人との関係を判断する材料として、白石遺跡と麻生田大橋遺跡(豊川市、東名豊川インター近く)があります。
白石遺跡からは弥生式(遠賀川式)土器が発見されおり、また環濠を持っており、弥生人(渡来人)による遺跡です。麻生田大橋遺跡からは、土器棺墓が多数出土しており、これも弥生人による遺跡だと思われます。その2つの遺跡からは、縄文人が日常的に使うであろう石鏃(矢尻)や石斧が多数出土しています。また2つの遺跡とも、縄文土器や縄文人による土偶が、弥生式土器と共に出土しており、それらが造られたのも同年代です。
これらのことから、弥生人と縄文人が共同生活していた可能性が大きいと思われます。
(豊橋市教育委員会「豊橋市埋蔵文化財調査報告書第15集」より)
(財団法人愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第21集「麻生田大橋遺跡」より)
(遠賀川式土器と白石遺跡の写真:豊橋市文化財センター「遺跡が語る豊橋の歴史」より)
3.東三河の縄文人はどこへ行ったのか
1)大伴氏(三河大伴氏)
田村厚司「増補版 穂国八名郡の古代史物語」によれば
①「中央大伴氏が勢力を失い、その大伴氏から天皇等の食膳に奉仕する組織を阿倍氏の一族が受継いだ可能性が大きく、その組織がかって中央大伴氏の管掌下にあったことを示すべく「大伴」を称したのではないか。また八名郡にその組織が設置され、三河大伴氏がその集団の長であったのではないか。」と読み取れた。そして三河大伴氏が阿倍氏の一族である可能性が大きく、阿倍氏とは物部氏と蝦夷との混血氏族なので、三河大伴氏は物部氏と蝦夷との混血氏族の可能性が大きいと考えた。
②また『奥三河に多い設楽氏・中条氏・富永氏は共に本姓は大伴氏で、後に伴氏に改姓したとされ、東三河は大伴氏・伴氏の本拠地であったとされている(『三ケ日町史』)、『本郷町史』。』
③また「宝飯郡史」によれば、「三河大伴氏は子孫が後世大いに栄え、 宇利・・設楽・・冨永・・幡豆・・八名・・となり」と読み取れる。
2)瀬織津姫
①瀬織津姫とは
菊池展明著「エミシの国の女神」によれば、瀬織津姫は「蝦夷の国の女神」で、伊勢内宮のもともとの神です。また伊雑宮(伊勢神宮内宮の別宮)の祭神は大歳神と玉柱屋姫命ですが、玉柱屋姫命とは瀬織津姫とのことです。
②瀬織津姫(=玉柱屋姫命)を祀る神社 ・ 瀬織津姫を祀る伊雑社
下図より、「蝦夷の国の女神」である瀬織津姫(=玉柱屋姫命)を祀る神社や「瀬織津姫を祀る伊雑社」が多く存在する。それらより東三河には、蝦夷(縄文人)の血をひく人が多く存在していると考えられる。
4.検討結果まとめ
1)東三河には多くの縄文人(蝦夷)が住んでいたと思われる。そこに渡来人(弥生人)が侵入しはじめたが、その段階では縄文人と弥生人は共同生活をしたと考えられる。
2)やがて邪馬台国の東遷に伴い物部氏や蝦夷が東三河に流入し、また大和政権による征夷があったが、内陸部では大伴氏、伴氏、冨永氏、宇利氏、設楽氏、八名氏等として蝦夷の血をひく人々が残り大繁栄した。また南の地方においても、おそらく弥生人と混血をし、多くの縄文人の血が残ったと考えられる。
パソコンの場合は「←」で。スマホの場合は「<」で、元に戻ることが出来ます。
コメントを残す